自由帳(じゆうちょう)

桑井鳴の自由帳

子どもの日ということで、教育と大人の理想像の話

去年辺りに国公立大学の人文系廃止というニュースがあった。また先日には「職業人」を大学は育てるべきだ、というニュースがあった。この流れは良くないと思っていて、それは他の教育行政についても同じだ。小学校の英語教育や直接法での英語教育、道徳の成績評価など。このようなことをしていると日本人は中身の薄い人間になるのではないのか?という話をしていく。(先に言っておくがこれは教育行政批判であり、政権批判ではない。勘違いして持ち上げたりキレたりしないように。ってかそんな人を批判してるんだけどね。)

 


1.英語教育
英語教育はどんどんとコミュニケーション重視になってきている。おそらく中高と英語を勉強してなぜ英語でコミュニケーションを取れないのかなんて一見当たり前に聞こえる意見を言った人がいたのだろう。しかし、中高と勉強したぐらいでそれを堪能に扱えないのは当たり前である。このブログをありがたいことに読んでくれている人はなぜ白村江の戦いが発生したのか、なぜ江戸時代に上方で町人文化が発達したのか説明できるだろうか。これは大学入試の日本史で出題されうる問題であるが、ほとんどの人はできないだろう。しかも中高生なんて受験生でもない限り大して一生懸命に勉強していない人も多いのだから当然であろう。
ところで英語教育のそもそもの目的は何なのか。それは英語を「読めること」であり、「書けること」である。外国人と笑顔で日常会話をすることなんかではない。もちろんその必要性も認めないではないが、そんなものは書いて読めたらあと少しのリスニング練習で事足りる。そもそも、学校とは学問をするところであり、学問をするところでの英語教育は英語で書かれた論文を読むことがゴールであるべきだ。
また英語教育といえば、最近では小学校でもしているという。スピーキングとリスニング重視でらしいが、どういうつもりなのか。小学生といえば正直日本語もまだ理解できてない子もいる。そのような子に英語を教えたところで大してできないのが関の山だ。また、リスニングは中学高校からでもなんとかなるし、そもそも流暢に英語を話せる必要はない。
その上、英語を英語で教えるなんてことも聞いたことがある。それはただただナンセンスである。考えてみればわかる。英語を理解していない人が英語で英語を教えられてもそもそも理解できるはずがない。また、それを行う前提として教員が英語で英語を教える能力を必要とするが、そんなものあるとは思えない。
こう考えると、いかに英語教育の方向性が間違えているかわかるだろう。

 

2.道徳教育
先生が道徳の評価を行うらしい。私は単純に先生にそのような能力はないと考えているので反対である。私が小学生や中学生の頃は道徳といえばテスト返却や事務作業の時間だった。正直総合と何も変わらなかった。今では道徳の教科書を毎週使って道徳の授業をしているのだろうか。その辺りのことは知らないが、ほんの数年前までは道徳の時間をそのようにして使っていた先生が児童や生徒の道徳の成績を評価できるはずがない。
また、小学校では特にその傾向があるのだが、先生は「みんな仲良くしましょう」なんて絵空事を吐く。そういった先生はなぜかみんなで遊ぶ昼休みの曜日なんかを作ったりする。確かにこれは外で遊びたい子に合わせて「みんな仲良く」するポーズを取っていると言える。ではなぜ読書が好きなインドア派の子に合わせてみんなで読書する昼休みの曜日を作らないのか。完全に二枚舌であると言わざるを得ない。
つまり、先生は自身の価値観を児童や生徒に押し付けがちだ。先生にそのような傾向がある以上、道徳の時間も自身の価値観を押し付けるだけの授業になる可能性が高いし、偏った成績評価になる可能性も否めないのである。

 

3.「職業人」と大学進学率
今では約半数の高校生が大学に進学するらしい。その内どれぐらいが学問をしようと大学に入っているのだろうか。以前、奨学金返還滞納率の高い大学ランキングなんてものを見たが、あれは大学と呼んでよいレベルにあるのだろうか。現在、レベルの低い大学では中学英語の復習を授業内でしているらしい。高校内容の英語を復習するようなところも当然のように存在するという。そのような学生が集まる大学に存在価値はあるのか。いや、あるはずがない。
現在一部で話題になっている、大学で職業人を育てるべきという考え方もこのような価値のない大学を潰せば一発で解決しうる。わざわざ大学に進学する必要はない。高卒で就職すればよいのだ。そうすると大学で無駄に過ごす可能性のあった4年間を職業のためだけに利用できる。
そして、私は大学まで授業料無償化、大学院は学生に給与を与えるべきと考えているが、こうすると無駄な財源を使うことなくこれが可能となるだろう。
また、以上のようなことを言うと「大学に進学する人が多いということはその国の文化レベル云々」なんて文句を言う人もいるが、もう一度言う。現在の日本の偏差値の低い大学に文化的、学問的な価値はあるのか?

 

4.理想の大人像
道徳教育の部分でなんとなく理解した人もいると思うが、私にとっての理想の大人像は「しっかりと考えることができる、精神的自由を持った人」である。たとえば、ある程度の年齢の人に多いのだが、先輩後輩関係は厳しくあるべきという考えの人がいる。そのような人は後輩の思考を妨げるし何より後輩から学ぶことができない。このようなしがらみをフラットに考えることができるのが精神的自由であると私は考えている。
そのために、人文系の素養は不可欠だ。文学は思考のきっかけになる。外国語は知見を広げるきっかけになる。また社会学は人間社会を知るきっかけになる。つまり、この記事の最後の主張として人文系の学部学科を廃止してはならないと述べておくこととする。


追記
タイトルは子どもの日としていますが、子どもの日にこの記事を準備しきれませんでした。申し訳ありません。

脳内麻薬

音楽に救われたなんて話は幾らでもある。たとえばこの音楽のメッセージのおかげで自殺を踏みとどまっただとか、音楽を始めようと思っただとか、前向きに生きようと思っただとか、自己を肯定できただとか。また、ある曲が頭の中で鳴り止まないっ状態になることもある。好きな音楽は何度も聴きたくなるし、美しい音楽はそれだけで芸術だ。

ところで、水星という曲がある。tofubeatsさんが今田耕司のブロウヤマインドをリミックスしたものらしい。なぜこの曲に言及したかというと、水星が意味もなく美しい曲であるからだ。

音楽は普通意味を持つ。クラシックは曲調を解釈されるし、現代の歌は歌詞を解釈される。だいたいの場合、この意味づけからはどうにも逃れられない。しかし、一部この意味づけからなんとか逃れる音楽がある。それはテクノやハウスなどの踊れる系音楽だ。あの系統の音楽はクラブで乗ることを基軸に置く。またテクノの音は身体にずっしり重く響く。だんじりの太鼓に近い感覚だ。

ここで水星について考えてみる。水星は踊ることができる。そして、歌詞はあるものの音楽として融け込んでいるので特に意味づけをあまりされない。また歌詞を見てもノることを奨励しているようで、意味を感じにくい。しかし、である。しかし、リズムは身体にシンプルに入ってきて勝手に脳内で流れ出す。都会的で現代的であるというお洒落さを併せ持つので余計に勝手に脳内で流れ出す。最終的には水星が頭から離れなくなり、水星に支配される。

つまり、水星は脳内麻薬である。

ロックンロールは鳴り止まないっ

まずはこれを聴いてほしい。

 https://m.youtube.com/watch?v=jiiPwHeW4dw

 

 

神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」だ。
歌詞は次の通りだ。

昨日の夜、駅前TSUTAYAさんで
 僕はビートルズを借りた
 セックスピストルズを借りた
 「ロックンロール」というやつだ
 しかし、何がいいんだか全然分かりません
 do da turatura oh yeah! yeah! yeah!

 夕暮れ時、部活の帰り道で
 またもビートルズを聞いた
 セックスピストルズを聞いた
 何かが以前と違うんだ
 MD取っても、イヤホン取っても
 なんでだ全然鳴り止まねぇっ
 do da doda tura tura oh yeah! yeah! yeah!

 今も遠くで聞こえるあの時のあの曲がさ
 遠くで近くですぐ傍で、叫んでいる
 遠くで見てくれあの時の僕のまま
 初めて気がついたあの時の衝撃を僕に
 いつまでも、いつまでもくれよ
 もっともっと、僕にくれよ
 もっと、もっと、もっと、もっと、くれよ!
 遠くにいる君めがけて吐き出すんだ
 遠くで近くですぐ傍で叫んでやる
 最近の曲なんかもうクソみたいな曲だらけさ!
 なんて事を君は言う、いつの時代でも

 だから僕は今すぐ、今すぐ、今すぐ叫ぶよ
 君に今すぐ、今、僕のギター鳴らしてやる
 君が今すぐ、今、曲の意味分からずとも
 鳴らす今、鳴らす時
 ロックンロールは鳴り止まないっ


・先人リスペクト
このMVには様々なロックンローラーの映像が使われている。音楽に疎い私でも忌野清志郎セックス・ピストルズは確認できた。この曲の中で

今も遠くで聴こえるあの時のあの曲がさ
遠くで近くですぐ側で叫んでいる

という部分がある。この「あの時のあの曲」とはそれまでに聴いてきたビートルズRCサクセションセックス・ピストルズなどのロックンロールであろう。それが今も頭の中でガンガン鳴っているのだ。どう考えても相当なリスペクトである。


・「現代」へのディス
一方でこのような歌詞がある。

最近の曲なんかもうクソみたいなヤツだらけさ
なんてことを君は言う
いつの時代でも

地下、サブカル、メンヘラ、下手糞、単純etc…様々なディスが現代の音楽シーン、いや、案外多くのカルチャー、そして生活にまで侵食している。「今時の若いモンは…」「昔は良かった」なんてのはある程度の歳の人の常套句ですらある。しかし、それは意外と昔からあったらしい。「エジプト辺りの古い壁画の文字に昔は良かったなんてことも書いてあるらしい」と斉藤和義も歌っている。
しかし、この曲での子はまた別の方法でこのディスを否定している。それは「初期衝動」である。と言うよりもむしろ、初期衝動においてクリエイトを肯定し続けていると言った方が適切かもしれない。

初めて気がついたあの時の衝撃を僕に
いつまでもいつまでもいつまでもくれよ

の子は初期衝動が続くことを願っている。そのためには常に新しい最高の作品が生まれ続けなければならない。そして、「イマドキ」を常に肯定する必要があるのだ。

 

の子は常に新しいものを追い、そして作り上げる。その根本には初期衝動への本能的欲求があるのかもしれない。

他人はエンタメ

私たちは毎日多くの娯楽に晒されている。たとえばテレビ、ネット、雑誌などがある。それはどこかしらでお金が動いて、利用者の元に届けられて…みたいな話をするつもりはない。そのお金が動く理由となる「人」。と言うよりは「他人」について書く。
(忙しい人はタイトルさえ読めばだいたい理解できます)

前述のテレビ、ネット、雑誌には作成者がいる。テレビだと制作会社のスタッフや出演者。ネットだと記事を書く人や広告を出す人。雑誌だとライターやデザイナー。無知だから全部列挙できないのだけど、多くの他人が関わって作成されている。当然遊園地なんかでも、そこの従業員だけでなく、アトラクションを組み立てた人なんかもいる。ブログ更新やTwitter投稿が趣味の人もSEさんなどの他人に支えられている。
このようにほとんどの娯楽には不可欠に他人が関わっている。
…と言っていいのだろうか。
「他人」が「エンタメ」を作り出しているのだろうか。
少し考えてみると、娯楽やエンタメはそこまで浅いものではない。たとえば腹黒と言われればそれまでだが、他人の悪口は楽しい。私の場合は自分に対する悪口すらなかなか楽しい。また、他人との会話も楽しい。心を許す相手なら特に。また、他人同士の会話を聞くのも楽しい。見知らぬ人でも、である。
また、前述のテレビ、ネット、雑誌の製作者はその作品の中に本人の人柄を残す。残さないという方法で残す人もいる。娯楽を提供するシステムを他人が組み立てるとき、その中に、「その人」が微かに残るのだ。

ここでもう一度考えてみると、「他人がエンタメを作る」のではなくて、「他人がエンタメ」であるように思えてくる。他人そのものがエンタメなのである。そうすると、エンタメの感覚が理解できるようになる、気がする。

自傷癖ありました

最近気づいたんだけど、私自傷癖あったんだよね。まあ一般的に自傷癖って言って思いつくようなリストカットとかはしたことないし、メンヘラってわけでもないんだけどね。
自傷癖って結構幅広い行為があるらしくて、さっき言ったリストカットから自分の髪の毛結構抜くとか爪ガシガシ噛むとかまであるらしい。私はその中のいわゆる皮膚を毟る癖なんだけどね。別に気にしないんだけどね。よりによって髪の毛の生え際の皮膚を掻き毟ってるんだよね。さすがに他人から見えるからね。だめでしょって思ってる。別のところだったらこれほど気にしなかったんだけど。まあとりあえず、社会生活に影響出るほどにメンタルやられてるわけではないんで、ね?

この前知り合いがネガティブな気持ちになるのが嫌だって言ってたんだけど、ネガティブって正直そんなに悪いものじゃないと思ってる。当然ネガティブを拗らせるレベルまで来るのは良くないけど、その部分はポジティブも同じ。
人間であるからには何処かに負の感情はあって、それは当たり前のことだと思っている。思想の自由をもっとカジュアルに捉えようみたいな感じで。ネガティブの自由。で、問題はその表現。例えば、他人に愚痴を言うように、他人に直接吐き出すことは良いと思う。でもその代わりあなたも愚痴を聞いてあげましょうねとだけ言いたい。他にもTwitterやブログで吐き出すのもあり。誰が見てるかわからないのを認められるのならば、だけど。問題は負の感情を発散するために何かを傷付けないといけない人。自傷行為もそうだし、他人に暴言吐くであったり色々ある。その人は、使い古されすぎた言葉でもあるんだけど、1度他人の視点から考えてみよう。リスカしてる人を見たい?他人の愚痴で暴言吐かれたい?まあこの言い方も酷だと思うんだけど。

そう言えばなぜネガティブが悪くないのか言ってなかったな。ネガティブは自分を悲観的に捉えるものだと思うんだけど、つまり自分の欠点を気にしすぎることだと思うんだけど、きっと頑張ろうって思うきっかけになるんだよね。
そして他人とかの自分ではどうにもならないことでネガティブになることはナンセンスだと思う。別にいじめられてる人にそんなこと言うつもりはないんだけど、他人なんて最終的には自分の力でどうにもならないんだから。そんなこと気にすることで自分のリソース使うの勿体ないと思わない?ネガティブになっても何もないよ。自分のなんとでもなる範囲で心を動かしたら良いと思うよ。
(自分のなんとでもなる範囲についてはまた気が向いたら書こう)

天地有情

天地有情という言葉がある。哲学者の大森荘蔵のエッセイが出典らしい。自分の心情はそれ自身では存在せずに、眼前の世界の一部としてのみ存在するという意味である。つまり、心情は自分で決めることができず、外部条件に定められるということである。

確かに気候の良い日には気分が良くなるし、逆に気候の良くない日は気分も良くない気がする。イベントは雨天中止だし、せっかく咲いた桜も落ちる。このように、世界と心情は密接に繋がっていると言えそうである。
ちなみに私は雨が好きだ。傘をさしていても足元が濡れてしまうことは残念であるが、雨音を聞くと心が安らぐ。人間の心を落ち着かせるために雨が降っているのではないかと勘違いするほどである。一方で夏が嫌いだ。夏はイベントが多く、その楽しさは認めざるを得ないが、暑さがどうしても憂鬱さを呼び込む。また、鋭い陽射しと蜃気楼で視界が揺らぐ。夏の陽射しを火差しと呼びたいほどだ。

しかし、天地有情は勘違いにすぎないのではないだろうか。憂鬱な出来事があったらどれだけ良い気候でも憂鬱だし、喜ばしい感情は気候とは関係なく喜ばしい。たとえば葬式なんかは憂鬱な出来事であるが、その日に限ってまあまあ良い天気だったりする。また、試験の合格発表なんかは雷が鳴っていてもテンション最高潮である。

ただし、天地有情と勘違いすることを否定することはない。悲しい気分を天気のせいにしたり、外部のせいにすることはメンタルを維持するために重要であるし、精神衛生上良いからだ。

エイプリルフールズ

4/1はエイプリルフールなんて呼ばれて、広まったのはいつからだろうか。今では個人だけでなく企業も嘘を吐くという、ネットリテラシーを大いに試される日となってしまった。今年はモスバーガーの菜のみやBリーグJリーグの提携などが嘘として流れたが、すぐにわかるものから信じてしまうものまで幅が広かった。

ところでエイプリルフールは簡単にいうと「嘘を吐いても良い日」である。つまり、普段は「嘘を吐いてはいけない日」ということになる。しかし、人間は嘘を吐くことは誰もが理解している。自然と嘘を吐いてしまう、といったことぐらい当然のようにある。この事は人間として納得すべき事であると思うし、そうなるとエイプリルフールを設ける意味がわからない。

というわけで、こう考えてみた。嘘は吐いてしまう。それは仕方がない。しかし計画的な嘘を吐いてはいけない。他人を騙すことなどがその例だ。エイプリルフールにさまざまな個人や団体が計画的な嘘を吐いていることからも、このように考えられる。このような倫理規範めいたものがあるから、エイプリルフールが機能するのだろう。

かく言う私は嘘を吐いたことがありません。(嘘)