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自由帳(じゆうちょう)

桑井鳴の自由帳

青春は商品

中学校は普通に地元の公立に通っていて、学年2クラスしかないながらもいろんな人がいたわけだけれども、先生が1番好んでいたのは「皆と仲良くしよう!」って口だけは言うちょっとヤンキー系の人だった気がする。私は昔っから妙に「浮く」存在で皆と仲良くなんて高尚なことはできなかった。とは言ってもだいたい業務連絡ぐらいのコミュニケーションはできましたよ。そのせいで多分先生には大人しいって思われてたはずだし、同級生には半端に嫌われてた。

ヤンキーさんたちは当時授業はあまり来なかったんだけど、体育祭とか文化祭とかの行事ごとになるとわらわらと毎日学校に来ていた。で、そんなときにはヤンキーさんたちはリーダーシップを取ろうとするわけです。しかも、ある程度の人はついていくわけです。当時のヤンキーさんたちの感覚で「ノリがいい」てのがあって、その集合に含まれる人たちはついていってたな。で、やっぱりそんな中で行事ごとに意味を見出せない私みたいな調子に乗った人が複数人いて、でもついていかない理由もあまりなくなんだかんだついていった。そうなるとヤンキーさんたちは全員が自分についてきてると思うんだろうね。「絆」なんて大層な言葉を多用するようになるんだよね。個人的にこの「絆」ってのが嫌いだった。と言うか今も嫌い。絆って言ってつく傷な。
まあ確かに地元の通ってる学校に愛着はあったよ。卒業式には1人前に泣いたし。でもどうせ偶然近くに住んでた人たちでしかないから同級生とかの人に対する愛着はなかったんだよね。どうせ3年間だしって感じで。
でも、そんな時に先生はリーダーシップを発揮してるように見えるヤンキーさんたちを高く評価する。正直ただの恐怖政治なんだけど。当時は全く理解できなかったけど、今思い返せばあれは先生たちの中の「青春っぽい」だったんだろうね。少なくとも小中学校ではホームルームとか集会とかで「皆と仲良くしなさい」とか言われたんだけど、正直無理としか思わなかった。多分大人の世界の方が遠慮とかがそこらじゅうにあって、本音をぶつける相手を選ぶからある意味生きやすくて、でも子どもの世界、と言うか大人から見た未熟に見える社会では、みんなが自己主張してるし、遠慮はないし、暴力的だし、で生きづらいと思う。でも大人の世界も多分生きづらくて、その現実から逃げたいんだろうね。必要以上に子ども時代を美化する。それが結局は安っぽい空想的青春ドラマに繋がると思う。で、それがリアルになったのが多分学校の先生。ちなみに私は先生から見たら仕方なくついていってる感じとかが丸見えだったらしく、気を遣われた。この場を借りてお詫び申し上げます。すみませんでした。

30人31脚とかロープジャンプとか27時間テレビでやってたトランポリンダンクとか甲子園とか高校サッカー選手権とかは青春消費行動だと思っていて、おもしろいとは思えないんだよね。まあロープジャンプは1回参加しましたけど。予選落ちです。きっと記録に残ってないだろうね。あれで駆り出された応援団の吹奏楽部とか人数合わせで仕方なく参加したって人にはきっと不満を持つ人がいるはずで、でもそれを無視して大人たちは間に合わせの団結を青春なんて言葉で片付けてわざわざ感動までする。自分たちが商品になってるにも関わらず収入とかが一切ない青春の提供者がかわいそうだと思う。


つまり何が言いたいかと言うと、青春なんてそんな良いものでもないよということです。